曇った夜空の上で
明るい事務所の廊下から、暗い曇った空を少し寂しそうに見上げるその背中を見かけた。
もう本日の仕事も終わり、日付が変わろうかという時間帯。
今からきっと彼女も帰るのだろう。今声を掛けたら、夜道を一人で歩くのは危ない、などと言って彼女を送って行けるだろう。
少しでも彼女と一緒にいたかった。
今はまだ、ただの先輩後輩でしかないけれど。
「あれ?キョーコちゃん。おーい、どうしたの?こんなところで」
俺よりも少し早いタイミングで(気づいたのはたぶん俺が先だろうけれど)マネージャーの社さんが彼女に呼びかける。
俺は社さんの声で彼女に気づいた風を装い、驚いたように軽く眼を見張った。
ゆっくりと俺たちの方を向いた彼女は、静かに微笑みながら丁寧な礼をくれた。
「お疲れ様です、敦賀さん、社さん。本日のお仕事は終わりですか?」
「うん、たった今ね事務所に帰ってきたところなんだ。キョーコちゃんは?」
「私は夕方にはドラマの撮影は終わっていたんですが、ラブミー部の仕事をしていて・・・こんな時間になってしまいました」
そう云いながら彼女の視線は窓の外の空へと向かった。
空に何かあるのだろうかと彼女越しに仰ぎ見るけれど、どんよりと曇った月も星もない、ただの夜空だった。
「空がどうかしたのかい、最上さん。なんだかさっきからやけに気にしてるみたいだけど」
「いえ、特別に空がどうしたってわけでもないんですが・・・曇ってるな、って」
彼女の理由が腑に落ちない。
曇り空が珍しいわけでもないはずなのに。何故今夜に限ってそれほどまでに気にするのか。
俺がよほど不思議そうな顔をしていたのだろうか。彼女は少し苦笑して言葉を継いだ。
「今日は、七夕でしょう?」
俺にとっては不可解な言葉。けれどそれで十分社さんには通じたようだった。
「ああ、そっかぁ。残念だねぇ、曇ってて。天の川も見れないしさ」
「いえ、どっちかっていうと、曇ってた方が嬉しいんです」
天の川、ということでようやく理解が及ぶ。
今日は一年に一度恋人同士が逢うことが許された奇跡の日。
今頃この遥か遠い空の上では恋人たちが逢瀬を楽しんでいるのだろうか。
けれど。一年に一度でも、愛した人と逢えるのはきっと幸せだろう。
逢えないその時間もお互いを恋人と、唯一無二の人と思い定めていられるのだから。
「嬉しいってどうして?」
「一年にたった一度のその幸せを、私たちが邪魔しちゃったら申し訳ないですもの。
きっと私たちが無粋な真似が出来ないように、この日は曇りにしてくれてると思うんです。そう考えると天帝も結構粋な人ですよね」
まあ、そろそろ許してあげてもいいんじゃないかなとは思いますけれど。
と悪戯っぽく笑うその表情が可愛くて。
抱きしめたいと切に願う。
七夕は短冊に願いを書いて、笹に下げるという。
もしも叶うというのならば。
俺が願うのはただ一つ。
彼女の幸せを誰よりも近い場所で見たい。
それが許される立場でありたい。
今はまだ、この想いを伝えることは出来ないけれど。
「きっと天帝は嫉妬しているんだろう。年に一度しか逢えないのに、毎年必ず彦星は織姫のところに通う。
どれほど離れていようとも心通わす仲睦まじい恋人たちに」
そう云って彼女を見下ろすと、彼女はふふっと笑ってきっとそうですね。と答えてくれた。
少しの沈黙の間俺たちは夜空の上で愛を語らっているであろう恋人たちに思いを馳せた。
「さあ、もう遅い。送って行くよ」
そう云って彼女に手を差し出すと、彼女はにっこりと笑って俺の手にその小さい手をそっと重ねた。
09.07.07