雨が降る・・・。
窓の外を斜めに降り続ける雨をぼうっと見つめていた。
梅雨、だからこその雨なのだろう。激しく時折雷までなっていた。
真っ黒で真っ暗な夜の空を、近くのどの建物よりも高い部屋から魅入られたように見つめた。
幾つもの白く透明な筋が黒々とした空を突き刺し、地面に落ちる。
こんな雨の中を傘も差さずに外を歩いたとしたら、たぶん体だけでなく心までも冷たく刺し貫かれてしまうのだろうと思う。
まるで、幼かった頃の私のように。
ただただがむしゃらに大好きな人たちに愛されたくて、努力して決して届くことのない手を伸ばしていた私。
その毎日は激しい雨に打たれているかのようだった。
けれど不幸ではなかったのだから不思議だ。
昔の、今はもう遠い昔のことを思い出して小さく笑う。
世界がまだ母と幼馴染だけだった頃。
この二人に愛されるためだけに己のすべてを費やしていた頃。
一時期は思い出すことが辛いほどだったのに、今は暖かな色で縁取られた優しい一枚の絵画のように私の心にひっそりと息づいている。
あの時期があったからこそ私は今笑っていられるのだろうと思う。
母とは絶縁してしまったけれど、幼馴染とは今も良い関係を続けている。
小さく笑いながらつ、と頬に冷たい雫が滑り落ちるのが解った。
何故涙が零れるのかも私には解っている。
幸せだからだ。
今の生活が。今のこの瞬間が。
「泣いてるの?」
後ろからそっと気遣わしげに労わるように優しく声を掛けてくれる人。
頬を伝う涙を隠すこともせずに私はゆっくりと振り向いて静かに頷いた。
「哀しいの?」
ぽつん、ぽつん、と呟かれるその言葉に私は言葉に出来ないほどの安堵を覚える。
この人の傍でなら私は私でいられる。
どんな感情も我慢することなく怒ることも悲しむことも泣くことも笑うことも。
私が私であれる。どんな私でもきっと受け止めてくれるだろうから。
涙を流し続ける私に優しく微笑み手に持っていたマグカップの一つを私に差し出してくれた。
そのカップからはほこほこと温かな湯気が立ち上っていた。
おかしくなってくすっと笑った。
「どうしてこんな六月も終りの季節にホットココアなんですか?」
「雨が降っているから。もしかしたら君の心にも雨が降っているのかなって思って。
温まるのならホットココアが一番だよ。優しくて甘い」
そんなことを真顔で言う敦賀さんがおかしくてさらにくすくすと笑い続けた。
「とか言いながら、敦賀さんココア飲んだことないじゃないですか。
甘いから嫌だ、って言ってませんでした?」
笑いながら尋ねた私に敦賀さんは軽く肩をすくめて、私のいる窓辺のソファから少し離れた一人がけのソファに座った。
そうして手に持っていた自分のマグカップをゆったりとした動作で口に持っていった。
きっと中身はコーヒーだと思う。
彼はアルコールを私の前ではあまり飲まない。
その理由を知りたくて一度尋ねたけれど笑ってかわされてしまった。
「哀しいの?」
笑いながらもまだ涙の止まらない私にさっきと同じ質問を繰り返す。
その瞳には優しい光しかなかった。
「いいえ。幸せなんです。どうしようもないほどに。
幼い頃から雨は大好きだったんです。雪と違って音がするから。
家で独りでいても雨が降れば私を取り巻く世界が生きていることがわかるでしょう?だから大好きだった。
それに・・・涙を雨に紛らすことが出来たから」
けれどそれとは逆に大嫌いだった。
雨はいつだって容赦なく私から体温を奪う。
ようやく心にためた小さな光までもを簡単に消してしまう。
「幸せなの?」
「ええ、とても」
「どうして?」
「貴方がいるから。大好きな雨が降っている夜に大好きな貴方の傍にいられる。
こんな幸せなことってほかにないと思います」
そう言ってまっすぐに見つめたその先で敦賀さんは優しく口角を上げ、微笑んだ。
「ありがとう。俺もとても幸せだよ」
ささやく、と言った方が適切なほどの静かな声で敦賀さんは私に言葉をくれた。
どんな言葉よりも嬉しい言葉を。
たまらなくなって涙をぼろぼろ流しながら、敦賀さんに抱きついた。
敦賀さんは何も言わずに私を膝の上に抱き上げてくれて、子供のように泣きじゃくる私の頭を撫でてくれた。
その手の優しさに胸を何かで衝かれたかのように愛しさがこみ上げてくる。
この人の手をもう私は手放せないだろう。
この人の傍にあるためなら私はどんな犠牲だって惜しまない。
この人にふさわしい己であるために私は自分を磨き続ける。
たとえ何があったとしても私はこの人を愛さなければ生きてはいけない。
優しい腕の中で私は誰かを刺し貫く雨を思った。
雨が恵だったとしても私は貴方の腕の方がいい。 06.06.26